LOGIN私は急いで離れなかった。景都も、照明が戻るまで肩の位置を変えなかった。
映画の帰り、電車は空いていた。 二人掛けの端へ座り、景都が私の隣に座る。上映中より座席は広いのに、さっき肩が触れていたせいで、今度は隙間の方が気になった。「眠そうだけど、大丈夫か。さっきから二回欠伸してる」「数えないでよ。映画が長かっただけで、別に眠くは――」 言い終える前に、また欠伸が出た。 本当は、昨夜もあまり眠れていなかった。景都を帰らせてから何度も目が覚めたことまでは言わない。 電車が地下へ入り、窓が鏡みたいになる。自分の顔と、その横の景都が映った。景都はスマートフォンを見ているが、指はほとんど動いていない。「仕事?」「天気」 画面には、明日の雨雲が時間ごとに並んでいた。「今、確認する予定でもあるの」「洗濯」 その生活感のある一言で、張っていた意識がほどけた。 そういう生活の話をするうちに、目が重くなった。 次に気づいた時私は急いで離れなかった。景都も、照明が戻るまで肩の位置を変えなかった。 映画の帰り、電車は空いていた。 二人掛けの端へ座り、景都が私の隣に座る。上映中より座席は広いのに、さっき肩が触れていたせいで、今度は隙間の方が気になった。「眠そうだけど、大丈夫か。さっきから二回欠伸してる」「数えないでよ。映画が長かっただけで、別に眠くは――」 言い終える前に、また欠伸が出た。 本当は、昨夜もあまり眠れていなかった。景都を帰らせてから何度も目が覚めたことまでは言わない。 電車が地下へ入り、窓が鏡みたいになる。自分の顔と、その横の景都が映った。景都はスマートフォンを見ているが、指はほとんど動いていない。「仕事?」「天気」 画面には、明日の雨雲が時間ごとに並んでいた。「今、確認する予定でもあるの」「洗濯」 その生活感のある一言で、張っていた意識がほどけた。 そういう生活の話をするうちに、目が重くなった。 次に気づいた時、頬の横に硬い布の感触があった。景都の肩だった。夫婦だった頃、車で眠った私の首が痛まないよう、黙って座席を倒したことがある。その肩の硬さも、眠った身体を支える時の腕の位置も知っていた。それでも今は、コート越しに頬を置いただけで息が浅くなった。 慌てて起きる。「……寝てないから」 景都は窓へ映る私たちを見た。「何も言ってない。肩が触れてただけだ」 五分もそのままにしないで起こして、と私は早口になる。景都は肩を揉みもせず、起こすほど嫌そうには見えなかった、とだけ言った。「重かったでしょう。肩、痺れてない?」「痺れるほどじゃない。次の駅まではまだある」「そんな言い方したら、本当にまた寝るよ」 景都がこちらを見る。「眠いなら寝ればいい。降りる前には起こす」 簡単に言われ、返す言葉がなくなる。 私は窓へ顔を向けた。もう眠くないはずなのに、車内の揺れが続くと肩の力が抜ける。今度は寄らない。寄らないつもりでいた。 二駅過ぎた頃、頭
「その座り方、疲れない? ずっと背中まっすぐじゃん」「君に触れないようにしてるだけだ。普通に座ると、肘が当たる」 スクリーンで大きな効果音が鳴ったあと、私は小声で「そこまで避けなくてもいいのに」と返した。 普通ではない。夫婦だった頃は、映画の途中で眠って寄りかかった肩も、暗い寝室で触れた腕も、いちいち意識しなかった。互いの体温を知っている相手が、今日は肘さえ触れないようにしている。その慎重さが清潔というより、かえって身体を意識させた。 照明が落ちると、顔は見えにくくなった。会話もできない。だから余計に、右腕の近くにある景都の体温だけが分かる。 映画は面白かった。たぶん。 主人公が大事な告白をしている場面で、私はスクリーンではなく、肘掛けの端を見ていた。景都の小指が黒い布張りのすぐ横にある。私が腕をずらせば触れる距離だった。 一度は夫婦として同じベッドで眠り、つい先日は壁一枚を隔てて互いを意識していた。それなのに、肘掛けの端で距離を測っている自分が馬鹿らしい。 ポップコーンへ手を伸ばした。景都も同時だった。 指が当たり、二人とも引く。「ごめん、同時だった」「俺も。暗いから見えなかった」 暗い中で謝り合うのがおかしくて、私は箱を景都側へ押した。「先どうぞ」「君が取ればいい」「じゃあ、持ってて」 景都が箱を持つ。私はそこから一つ取った。今度は指が当たらない。それがどこか残念で、すぐに自分へ呆れた。 映画の後半、冷房が強くなった。腕を組んでいたら、景都が身体をこちらへ寄せる。「さっきから腕を組んでるけど、寒いか?」 小声で聞かれた。「ちょっと。でも、上着を出したら大げさなくらい」「じゃあ、風が当たる側を替わる」 景都はそれ以上何もしなかった。ただ、風が当たる側へ自分の肩をずらした。私はその距離を戻さない。 しばらくして、肩がかすかに触れた。 上映中、景都が暗さの中で私のカップへ手を伸ばしたので、肘でそっと止めた。「そっち、私の。炭酸」 彼は暗い中で自分のカップを
洗った茶碗は二つ並んでいるのに、ソファには誰もいない。畳んだ毛布を抱えて押し入れまで行き、上段へ入れる前に手が止まった。来週使う予定があるわけでもない。だからこそ、今すぐ奥へしまう必要もない気がした。 結局、毛布はソファの背に掛けた。 昼前まで眠ろうと思ったが、八時には目が覚めた。洗濯機を回し、冷蔵庫の卵を数え、昨夜開けた水を飲む。することはいくらでもある。なのに玄関へ行くたび、最後に景都が立っていた位置を見てしまう。 帰ってと言ったのは私だ。 あのまま残られても困った。 それでも、帰ったあとに寂しいのは別だった。 昼過ぎ、灯から仕事のチャットが来た。来週の販促写真について、金具の反射をどこまで消すかという確認で、私は三分で返した。そのまま画面を閉じようとして、映画の広告が目に入る。前に景都が原作を読んだと言っていた作品だった。 チケットのページまで開き、一度閉じる。 昨日のことを何も話さず、次の予定だけ決めるのは逃げだろうか。逆に、昨日を全部整理してから会おうとする方が、景都の予定表みたいで嫌だった。◇ 夕方、買い物へ出た。塩、牛乳、卵。売り場で小袋の米を見て、粥はしばらくいいと思う。レジへ並んでいる間にスマートフォンを開いた。『来週の土曜、映画行かない? 昨日のことを話すためじゃなくて、普通に』 送ったあと、袋詰めをしながら何度も画面を見る。既読はつかない。仕事中だと分かっているのに、牛乳を冷蔵庫へ入れる頃には取り消したくなった。 十八時十三分、返信が来る。『行きたい。何時にする』 昨日の玄関には触れていない。『午後。まだ決めてない』『作品は』 タイトルを送ると、少しして『見たい』と返った。 私は冷蔵庫の扉を閉めたまま、画面を見る。 帰ってと言ったのは私なのに、景都はそれを拒絶されたとは受け取っていないらしい。次の約束をなくす理由にもしていない。それだけで十分だった。『じゃあ時間、あとで送る』 送信直後、もう一通届く。『土曜、空いてる』 午後の上映時間を調べる。十
景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。 私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。 景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」 まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。「いちいち見ないで。分かってるって」 言いながらも、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」 景都は数秒黙った。「したかった」 答えは短かった。景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入る。平然として見えたのは、欲しくないからではなかった。「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」 答えはすぐには返ってこなかった。「知ってる。だから余計に分からない。昔の君なら、たぶん今、キスしてた」 胸が跳ねた。言われた場所から順に、身体が熱を思い出す。「でも今やったら、また怒られる気がする」「怒るかもしれない」自分でも意地悪だと思った。「でも、何もしないのも腹立つ」景都が本気で困った顔をする。その顔を見たら笑いそうになって、余計に悔しかった。「景都」「何」 帰ってほしくない、と言えばよかったのかもしれない。でも、口にしたら今夜がこの先まで進みそうで、怖かった。「……今日は、帰って。さっきのこと、まだうまく嬉しいだけにできないから」 景都は一度だけ頷いた。「分かった。じゃあ帰る」 あっさり言われると、それはそれで胸が詰まった。帰ってと言ったのは私なのに、引き止める理由を探しそうになる。玄関には、昨夜の濡れた靴の跡が薄く残っていた。 景都がドアノブへ手をかける。「忘れ物――」 言いかけてやめた。財布も鍵も時計も、自分で確認する人だ。「何?」「何でもない」 今度は私が使った言葉に、景都の眉がわずかに上がった。
景都は一口食べ、塩の瓶を見たが、そのまま茶碗へ戻った。 私はもう一度、今度はさっきより多めに振った。景都は自分の茶碗を引き寄せる。「景都は足さないの?」「一回食べてから」 景都は塩の瓶を取った。二回。私より少ない。瓶をテーブルの真ん中へ戻し、もう一口食べる。私も食べる。同じ鍋からよそった粥なのに、途中から味が違った。 私は自分の茶碗を傾けて底の米をすくった。景都は私の塩加減を見ても口を出さず、自分の方だけをもう一度味見した。 景都の茶碗は、私のものより色が薄い。「本当にそれでいいの?」 彼は一口食べ、「別でいいだろ」と言った。昔は塩を足さなかったはずだと尋ねると、一人の時に試したらしい。「今さら?」「離婚してから」 短い答えの向こうに、私の知らない朝がいくつもあった。 私のいない台所で、景都が塩の瓶を取った朝を思い浮かべる。塩パンもブラックコーヒーもそうだった。知っていたはずの人に、私の知らない味が増えている。 景都の茶碗が先に空く。彼は鍋を洗おうと立ち上がり、私がまだ食べているのを見て座り直した。「音がするから、食べ終わってからでいい」 もう起きている、と返しても、彼は時計を見ずに待った。 六時半まで、もう数分しかない。電車は動いているし、昨夜濡れたジャケットも乾いている。それでも景都は時計を見直さなかった。私は最後の一口を急がずに食べる。 食べ終えると、景都が二つの茶碗を重ねた。私の分だけテーブルに残す。昨夜貼った絆創膏へ目をやって、流しへ持っていくのをやめたらしい。「絆創膏を貼ってても、茶碗くらい持てるよ」「知ってるよ。俺が立ったついでだから」 景都は自分の茶碗と鍋だけを洗う。蛇口の音の向こうで雨がほとんど聞こえなくなった。「次に作るなら、米粒をもう少し残して。煮すぎないで」 景都が水を止める。「次も作っていいのか」 言い直すこともできた。今日の粥の話だけだと言うことも。「次は、粥じゃないのがいい。食べたいもの、先に聞いて」 景都が玄関で靴を履い
扉を開けて、ソファでは狭いからこちらへ来るかと聞くこともできる。想像しただけで、また喉が渇いた。一時半を過ぎ、リビングの明かりが消える。扉の下から入っていた細い光もなくなった。それから何分経ったのか分からない。喉が渇き、ベッドを抜け出す。扉を開けると、部屋は暗かった。窓の外の街灯だけで、ソファの形が見える。景都は横向きになり、短い布団から足を出していた。 起こさないよう台所へ向かう。「水、飲みに来た?」 暗闇から声がした。「起きてたの?」「今、扉の音で起きた。何かいるか?」 景都が身体を起こしかける。「寝てて。自分で取る」「分かった」 すぐまた横になる。冷蔵庫から水を出すと、棚に夕食の残りのご飯が一膳分あった。明日の朝に食べようと思い、そのまま扉を閉める。グラスへ注いだ水を、立ったまま半分飲む。ソファからは景都の呼吸が聞こえない。眠っているのか確かめたくなり、暗さに目を慣らした。「朝、出る時……」 言いかけると、景都が目を開けた。「起こした方がいいのか?」 先回りされたことに腹が立つより、言えなかった自分の方が苦しかった。「……まだ分からない。やっぱりいい」「朝、出る時」の続きは、起こして、と言いたかったのだと思う。けれど口にする前に、急に恥ずかしくなった。水を飲み終え、空のグラスを流しへ置いた。 ソファの前を通る時、景都はもう目を閉じていた。眠ったふりかもしれない。私は名前を呼ばず寝室へ戻った。 米の匂いで目が覚めた。枕元の時計は六時十二分。外では雨が細く残り、部屋の中から鍋の蓋が鳴る音がした。台所へ行くと、景都が昨夜のご飯を小鍋で煮ていた。シャツには皺があり、袖を二度折っている。「断りなく台所使ったの?」 景都は木べらを止めた。昨夜のご飯が一膳分残っていたので、起こす前に作れると思ったらしい。「私が朝に食べようと思って残したの」 鍋の蓋から落ちた雫が、火の上で小さく鳴った。「……それなら、先に聞けばよかった」 鍋







